Buddysの生き様

スラックライン選手・指導者 福田恭巳

「狭いラインの上で飛ぶ、その緊張感。でも同時に、ダンスみたいに個性を表現できる自由さがある。その感覚に惹かれて、『めっちゃ面白い!』と思ったのが、スラックラインでした。」

スラックラインのプロライダー 福田恭巳(ふくだ・ゆきみ)。

日本一5連覇、世界大会優勝。華やかな実績の裏には、迷いも、挫折も、そして挑戦を選び続けた日々がある。

幼少期「一番になりたい」気持ちが原動力

生まれは東京で、育ちは千葉の浦安です。

両親がダンサーだったので、小さい頃から音楽や踊りがすぐそばにありました。だから自然と体を動かすことが好きだったし、落ち着きがない子どもでしたね。怪我も多かったです(笑)

小学校のマラソン大会では、ずっと2位。最後まで1位を取れなかったのが、すごく悔しかった。泣いて終わるんじゃなくて、「じゃあどうやったら勝てるんだろう」って考えるタイプでした。

「一番になりたい」っていう気持ちは、その頃からずっと私の中にありました。

※のちに知ったんですが、マラソン大会で私の前を走っていた子は、東京オリンピックの自転車競技に出場していました(笑)

クライミングとの出会いと限界

高校ではスポーツクライミングを始めました。

千葉国体の代表になったり、アジア大会で優勝したりもしました。運が良かった部分もあるけど、自分でも本気でやってました。

でも、やっぱり小さい頃から積み上げてる子たちの壁は厚くて。上位に食い込むのが本当に難しい。結果が出なくなって、だんだん心がしんどくなってきて…。

そんなときに出会ったのがスラックラインです。

スラックラインは、ストイックさと表現の融合なんです。

通っていたクライミングジムで、イベント的にスラックラインが持ち込まれたんです。最初は全然できなかった。3か月くらいかかってようやく歩けるくらい。

でもね、ラインの上で飛んだり回転したりする姿がすごく面白くて。クライミングみたいにストイックだし、ダンスみたいに自分の個性を出せる。その両方があるスポーツに初めて出会ったんです。

2010年に日本で初めて大会が開かれて、そこで準優勝。

優勝できると思っていたのに準優勝だった。

それで「絶対にここで一番になりたい」って火がつきました。

就職ではなく「挑戦」を選んだ

短大では保育を学んで保育士資格も取りました。
でも卒業のとき、就職はしなかったんです。
みんな就職していく中で、「私は今、日本一を争える位置にいる。今しかない」って思いました。

ここで離れたら絶対に戻れない。
だから就職せずに、アルバイトしながらスラックラインに全力をかけました。

賞金だけでは生活できない。それに遠征費もバイト代では足りなくて、親に借りては返す生活でした。それでも「挑戦を優先する」って決めたんです。

日本一5連覇と、その後のスランプ

その選択は正しかったと思います。

20代前半で全日本で初優勝して、そこから日本一を5連覇。さらに海外にも挑戦して、世界ランキング女子1位を経験しました。


でも、5連覇のあとに2年間、日本一を取れなくなったんです。


勝っても喜べないし、負ければ苦しい。完全に結果に縛られてしまっていました。
そのときにメンタルコーチと出会って、「勝つことだけじゃなく、自分の力を出し切ることが大事」って気づけたんです。

その翌年、再び全日本で優勝。世界大会でも世界1位になることができました。あの時は本当に、折れずに続けてよかったって心から思いました。

ママになっても挑戦をやめない

結婚して子どもを産んでからも、挑戦する気持ちはなくなりませんでした。

産後8か月で大会に復帰して、「ママでも挑戦できる姿」を見せ続けています。
結果じゃなくて、挑戦する姿そのものが誰かの背中を押す。

だから私はアマチュア向けの「YUKIMI CUP」を主催して、挑戦の一歩を踏み出す人を応援しています。

読んでくれているあなたへ

私はずっと自信満々だったわけじゃないです。
比べて落ち込むこともあったし、負けて悔しいこともいっぱいありました。

でも、それでも挑戦をやめなかったから今があります。

人と比べなくていい。
すでにみんな、自分の中に武器を持っている。

あとは、それをどう使うか決めて、踏み出すだけ。

挑戦は怖いものじゃなくて、自分を輝かせるもの。
そのことを、これからも伝えていきたいと思います。

挑戦に、
    香りの相棒を。




なりたい自分になるために、
挑戦をどれだけ繰り返してきたか?

うまくいかない日も、前に進めた日も、
その一歩一歩が未来をつくる。

Buddyの香りは、
「次の一歩」を踏み出す勇気を与えてくれる相棒です。